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聖霊降臨の大祝日   Dominica Pentecostes                            


 聖霊降臨の大祝日とはその名の如く、聖霊が使徒達の上に降り給うた記念日であり、かねて又聖会が生まれかつ活動を開始した記念日でもある。これは御復活に次ぐ大祝祭であるから、前者同様第一級の祝典として1週間にわたり祝われる。我等は馬槽や十字架を見る度に「けだし天主のこの世を愛し給える事は御一人子を賜うほどにして、これ総て之を信仰する人の亡びずして永遠の生命を得ん為なり」(ヨハネ3・16)という聖書の言葉を思い出すとすれば聖霊降臨の大祝日を迎える毎に「聖父と聖子のこの世を愛し給える事は、聖霊を賜うほどにして、これその霊が全地をおおい、地の面の新たにならん為なり」と言わねばなるまい。

 (1)聖霊の御力と御成長はまず使徒達及び彼等と共に集まった少数の信者達を新たなる人とした。彼等はイエズスの御命令に従い、主と聖晩餐を共にした思い出の部屋、エルサレムなる高間に集まり、約束された聖霊の御助力を仰ぎ望み、その真理の霊が来たり、イエズスが彼等に語られた所を教えかつ思い出でしめ給うのを待ちわびながら、心を合わせて「主よ聖霊を遣わし給え、しかして萬の物は造られん、地の面は新たにならん」と祈っていたのである。
 所が主の御昇天後10日目の事であった。朝の9時頃突然不思議な風のような音が聞こえたかと思うと、天上の偉大な力がその家に充ち満ち、同時に火のような舌が彼等に顕れ、分かれて各自の上に止まった。すると一同はたちまち聖霊に満たされ、その言わしめ給うままに種々の言葉で語り始めた。
 当時エルサレムには諸国から来たユダヤ人が沢山住んでいたが、先の不思議な音を聞いて何事であろうとその場に馳せ集まり、使徒達が自由に外国語を操るのを聞くや、驚き感嘆する者もあれば、酒にでも酔ったのであろうと嘲る者もあった。
 この時使徒の首領聖ペトロはやおら立ち上がり、聖霊の御導きに従い、舌端火を吐くような一場の説教を試みた所、人々は深く感動しその日のうちに洗礼を授かって、信者の列に加わったのは三千人の多きに上ったのである。

 (2)けれども聖霊降臨の大祝日に我等が記念するのはただこのような一時的な出来事ばかりではない。聖会内常に在す給う聖霊の絶えざる御はたらきをも併せ祝うのである。聖アウグスチヌスは聖霊を「聖会の霊」と呼んだ。キリストは総ての人を永福に導く為聖会を創立し、聖寵の道なる7つの秘蹟を定め、これを施すに使徒達を選び、聖ペトロを彼等の元首と為し、また最初の聖職者を立て、これに布教の全権を与えて真の信仰を万民にのべ伝えよと命じ給うた。かようにして聖会の重要な組織は出来上がった訳であるが、それだけではまだ魂の入らぬ身体に均しく、生命もなければ活動もなかった。然るにそこへ聖霊の降臨があって、キリストの神秘体である聖会に生命が吹き込まれ、その聖なる原動力により始めて活動が起こり、聖ペトロの説教となってみごと三千の霊魂を改心せしめたのであった。
 爾来聖霊は聖会の布教事業を通じ、絶えずあらゆる国民、あらゆる種族に力を及ぼして来られたのみならず、今後も世の終わりに至るまで真理の霊として聖会を助け、その教職者を誤謬より護り、彼等の説教を祝福して人々の心に徹し善き実を結ぶようにして下さるのである。なお司祭職を通じては秘蹟により聖寵を分かち、霊魂を照らし、清め、強め、慰め給う。その他罪を赦す力も聖霊より来たり、ミサ聖祭もその御働きに基づく。すなわち聖霊はかつて聖マリアの御胎内にキリストの人性を造り給うた如く、今も御ミサの中でパンとぶどう酒をキリストの御肉御血に変え給うのである。故に奉献の際聖霊を献物の上に呼び下すのは最も適当と言えよう。
 最後に聖霊は司牧職を保護指導し、いつも信者にキリスト教的生活を営ませるようこれを励まし給う。そして聖会に超自然的力を付与し、地獄の門を永久これに打ち克つことなからしめ給うのである。

 (3)聖霊降臨の大祝日は更に我等の霊魂における聖霊の御はたらきをも記念する。まず洗礼の時聖霊は我等に超自然の生命を与え天主の子として下さった。我等が聖霊の御住居、聖い神殿となったのもその時からである。次いで堅信の秘蹟を授かる時聖霊は我等を強めて何時如何なる場合にも恐れる事なく信仰を現し、救霊の敵と勇ましく戦う力を恵み給うた。その上我等の智慧を照らし、永遠の真理、天主の御旨を明らかに悟らしめ、悪を避け善に就くよう勧め給うのもやはり彼である。実に聖霊なしには我等は祈りといい、善行といい、何一つ為し得ないのである。
 かように聖霊の驚くべき御業の数々を黙想して見ると、その記念の大祝日の真に喜ぶべき所以が解るであろう。またそれと共に聖霊に対し感謝の情の悠然と起こるのを禁じ得ぬであろう。されば我等は本日をふさわしく祝うと同時に、日頃の報恩の為今後大罪を避け、聖霊の御住居なる己を汚さぬはもちろん、小罪も厭うてかりそめにもその御心を痛め参らせぬよう努めようではないか。